心を入れ替えてまじめに読もうかなと。
文久2年の第1回遣欧使節団に同行した源一郎氏の回想シーン。
「扨も三使は蘇尼(ソーエス)にてオーヂン艦を出て初て埃及(エヂプト)の鉄道に乗り該禄(カイロ)に着し同国亜王(ワイスロイ)の招待に依りて三日間滞留して以て迎船の来るを俟ち同所より再び鉄道にて歴山太(アレキサンドリア)に着し直に英国軍艦ヒマラヤ号に乗移られたり。」福地源一郎「懐往事談」民友社、1897年
・・・エヂプト。歴山太。なんかいろいろ新鮮です。
しかし、はじめて読んだときは「何のこっちゃい?」と思いました。
なんでヨーロッパに行くのにわざわざエジプトで船を降りて、陸路でアレキサンドリアまで行くのか?そのまま船で行けばいいじゃないか?と。
そう思って調べてみたら、うわ、そっか(笑)!スエズ運河がまだ開通してなかったんですね!文中に「ソーエス」とあるのは、十中八九「スエズ(町の名前の)」かと思われます。そこからカイロ経由でアレキサンドリアへ、というのは、きっと運河開通以前当時の一般的な行路だったんでしょうね。
また、使節団は当時のエジプト統治者から3日間に亘る供応を受けているのも初めて知りました。「亜王」と「王」が付くので一見国王のようですが、当時エジプトはオスマン帝国支配下の「州」でありながらも、エジプト支配の実権はムハンマド・アリー朝(1805年~1953年)による世襲制の「エジプト総督(ワーリー)」が掌握していたので、招待者の称号は、どうも正式には「国王」とは言えないらしい。
(「総督」は本来は、中央から地方州統治を承認される「州知事」の如きもので、その地方管理職が現地の実権を掌握して強権化した状態かと想像されます。ともかく、1831年と1832年の二度にわたって、オスマン帝国とエジプトはギリシャ独立戦争のもつれから交戦を行っていて[エジプト・トルコ戦争]、しかもその際ムハンマド・アリー朝は、欧米列強諸国からエジプト総督の世襲制を承認されているので[ただし宗主権は依然オスマン帝国スルタンに帰属している]、実質的にムハンマド・アリー朝の「エジプト総督」が、「エジプト国王」に相当する地位にあることは確かみたいです。)
面白いのは称号の当て字で、福地は漢字で「亜王」と書いてルビを「ワイスロイ」と振っています。おそらくこれは「ワーリー」に相当していて、現地の称号をそのまま採用したのではないかと窺えます。また単なる推測ですが、「亜」を「~に次ぐ」という意味の漢字として捉えてみると、「亜王」という当て字は、これもいろいろと政治的配慮に苦心した結果なのかなあ、という気がします。ただ後世にこの字が普及した様子はないみたいですが(笑)。
もののついでで調べてみたところ、第一次遣欧使節団派遣当時のエジプト総督は、初代総督であるムハンマド・アリーの息子、サイード・パシャ(在位1854年~1863年)だそうです。サイードの少年時代には、かのフェルディナン・ド・レセップスが家庭教師を勤めており、後年、彼の助言によって、有名なスエズ運河の開発が開始されます。しかしこれがエジプトに多大な財政難危機をもたらし、サイードは1863年、享年40でこの世を去っています。
サイードの後任者はイスマーイール・パシャ(在位1863年~1867年)で、在位期間を見るに、幕府の第二回遣欧使節団の方は(例の、埋もれたスフィンクスと日本武士が一緒に写真に写ってるシュールな写真で有名な使節団)、こちらの総督に面会したと思われます。彼の時代には、先代の始めたスエズ運河建設の続行や、欧化政策推進のための出費増大が積み重なって、エジプトが巨額の対外債務を抱える事態となり、1875年のスエズ運河売却に引き続き1876年、ついにエジプトは破産して、債務者である列強の管理下に置かれることとなりました。
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