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設置者の設置者による設置者のための個人ブログ。日々の徒然&木戸公愛。
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木戸さんご命日の今日、もはや休止中に等しいこのブログを
久々に再開しようと思い立ちました。
いろいろとすみません!
一応まだ自分の中では動かす気あるんです・・・。


さて今更ですが、133回忌。
木戸先生のご冥福をお祈り申し上げます。



余談ですが、命日ネタ(不謹慎)で、先日見つけた電報の話。
133年前の5月26日、山尾・杉からの電報で木戸さんの訃報を
受けた山県有朋参軍のお返事電信。

「キドタカスケコンチヨウシキヨセリト、ヤマヲ・スギリヨウニノン
ヨリホウチアリ、コノダンンゴボウチモリス」


誰だよタカスケって!!
そりゃあないぜ狂さん!
人は悲しい場面では泣きたいモンだよ!

ところで誤字が5箇所もあるけど間違い過ぎじゃね?
動揺したあまりの事だろか。。。
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〇は不明箇所。
穴だらけだよ! 
 
「仲尼言へるあり曰く、人遠慮なければ必ず近憂ありと、其言古しといへども、其理は猶新きが如し、松菊木戸公の如き盡、能く仲尼の言を軆せしものと謂ふべきか、文久元治の交、出石は広戸甚助なるものあり、為人任侠にして機矯あり、博打をなして発覚す、遁逃して京都に上り対馬藩士多田壮蔵に仕ふ、壮蔵人と為り慷慨交通、太だ廣く各藩の志士徒党〇て稠し、内に長門藩士桂小五郎なるものあり、特に甚助を愛す、一日来り過き謂て曰く、卿常に云ふ、家但馬出石にありと、余地図に就て之を検するに、其地京都に近くして幽邃ならんと、具さに通行の遠近山川の険易を問ふ、既々畢り笑て曰く、士藩主に仕ふ、アンイ遇合なきを保つを得ん、豫め潜匿の地とし置かざるべかざる、余若し譴を藩主に得ば、卿能く保護を肯ずるや否、甚助謂らく、是戯謔なりと、一笑を偽す、是より甚助を愛すること特に多く、時に秘書を托し知己に封送せしむるに、来る元治元年に至り、長兵關を犯す、一戦敗退兵士或は死し或は遁る、甚助既に小五郎の為めに秘書を封送す、幕吏の来り捕るを恐れ、潜匿して出でず、然るに人あり来り訪ふこと数回、甚助益潜む、一夜老婦あり来訪ふ、甚助謂らく他は幕吏にあらずと、密に出接す、小五郎情婦の母なり、曰く、主公切に君に遇ふことを欲す、請ふ妾と共に来り面せと、甚助曰、主公恙無きや否、答て曰く然りと、母に従て行く、導して五条磧中乞児の稿楼に時に炎暑極て烈なり、小五郎蟄して其中に在り、曰く、疇昔余卿に託するに保護を以てす、卿能く之を犯するや否、甚助曰く、賎夫固より之を犯す、然れとも男子耦行す、恐くは人をして之を疑はしめん、婦人を加るに如かず、請う暫く之を待てと、妹の京都の豪家に仕えしものを訪ひ倶に帰ることを勧む、妹曰く、阿兄平生妹を戒て曰、女子人に仕ふ忠誠ならざるべからずと、今や主家兵災に罹る、妹為めに股肱の力を尽さんと改す、如何して郷に還るべけんと、甚助理屈す、已むなく小五郎を導して京師を発す、潜行三日但馬久畑に達す、久畑は出石の藩境なり、関を設けて行人を誰何す、甚助藩吏の博打の事により巳れを拘するを畏れ、豫め小五郎に教ふるに、藩関士に答ふる要点を以てし、小五郎をして官道を進ましめ、自は間道を取り関門外に至り之を侍る、久して至らず、輿丁走り来りて曰く、関吏誰何実に厳峻を究む、請ふ帰りて之を救へ、甚助已むを得ず帰て関門に至る、藩士数名あり内々長岡市兵衛なるものあり、其居甚助の宅に近し、もと甚助を知る、口を開て輿中にあるものの何者たるを詰問す、甚助〇て曰く、他は二方郡居但の船主なり、大坂にありて発病す、時に賎夫将さに郷に帰んとす、船宿主人賎夫に托するに送還を以てす、疑ふに足らざるなりと、藩士之を信じ始て通行を許す、進て出石の〇村寺坂村に至り休憩し、甚助日没を以て出石に入り、角屋喜作を訪ひ、其間房を借ることを約し、直に寺坂村に帰り、小五郎を導して出石に入る、出石の地京師を距ること三十里、幕府会薩の倹吏時に来往、老険極て甚し、甚助其父才と惰らず、倹吏の来往するごとに、或は湯島に赴かしめ、或は養父に避けしめ、百方保護して、小五郎をして倹約発検を免れしめしのみならず、之をして京都の状況を探知することを得せしめ、翌年に至り送て山口に至る、当時の〇〇今迄存するもの極めて多し、既にして喜七先歿し、甚助直蔵亦跪き歿す、直蔵の子正蔵、拾蒐して冊となし、余に請ふに叙を以てす、晴天木戸公の事を挙るや、戦盼の必すべからざるを思ひ、豫め逃場を設け始て干戈を御し、一旦事敗るるや近畿に潜匿して添加の形勢を察す、遠慮ありて近憂を脱せんものといはざるべからず、甚助父子兄弟協心戳力して能く公を〇〇し、正蔵当時邊墨を集め其不朽を謀る、亦称せざるべからず、叙して之を養〇し置く
八十九歳 桜井勉」
 
何度も言うようですが、管理人は崩し字が読めないので、くれぐれも信用しないでください。マチガイを見つけられた寛大な方は、ぜひご一報くださいませ。



「鍋屋孝助伝
 
孝助本姓廣江鍋屋と称し父を喜助と云ふ、但馬出石の人なり、幼にして不覊飲酒、家を治めず藩吏将に之を捕しとす、孝助遁れて京師に赴き、対州藩留守居多田宗蔵の家に仕ふ、同藩林竹次郎なる者あり、人となり奇俊特に孝助を愛す、一日但馬国図を抽き、備さに出石の形勢を問ひ、徐に謂て曰く、此地京師に近くして幽静なり、億ふに世を避るに便ならん、孝助為めに其形勢を説く、竹次郎笑て曰く、吾若し本藩の為めに追はれ出石に行かば、卿能く之を庇や否、孝助笑て之を諾す、竹次郎是より特に孝助を春み、委するに密書を以てし、且曰く、余や実は長士桂小五郎なりと、文久4年長藩兵を京師に挙ぐ、前夜竹次郎孝助をして弾薬を因藩松田正人の家に送らしめて而して出づ、次日事発す、孝助馳て正人が邸に行く、閑として人無し、轉じて郭内に入る、兵士填塞す、孝助遁れ帰て対州邸に潜伏し、敢て出でず、夜々来り呼ぶ者あり、孝助益潜み、敢て面せず、居ること数日、妓幾松が母、夜を以て来り訪ず、幾松は三本木難波常次郎が養女にして、常に竹次郎の為めに愛顧せられし者なり、母の曰く、夜々人をして君を招かしむ、而して君面せず、其実君に請ふに、郎君(阿主)を救ふことを以てせんと欲するのみ、孝助笑て曰く、林公恙なきや、母の曰く郎君(阿主)恙なし、故を以て来り訪へる、而已孝助袖を投じて出づ(立つ)、母導にして二条今出川通河家の一陋舎に至る、時に秋暑が燬くが如し、舎に壱の小室のみ、室内薦を被りて臥する者あり、孝助が覆声を聞き徐に其面を露はす、孝助之を見れば則ち竹次郎なり、声を潜め請て曰く、孝卿恙無きや、請ふ幸々活路を與へよ、孝助之を諾す、心に謂ふ、変後未だ久しからず、物色極めて厳ならん、女子と同行せば其幾くは誰何を避るを得ん、偶ま其長妹京都の一商家に仕ふ、直に之を訪ひ説て曰く、余や俄かに出石に帰らんと欲す、妹が主家兵火に罹れり、同く帰るべしと、妹曰く主家災に罹る、阿兄宜く妹に諭して其努に服せしめざるべからず、今帰るを勧む亦戻らずや、孝助辞屈す、已むを得ず竹次郎と相携へて而して発す、路次物色皆果して厳なり、孝助百方辨解、捕縛を受けずして登尾坂を下ることを得たり、坂下駅あり久畑といふ、出石藩の封邑に属す、孝助警吏の究追して前罪に及ばんことを恐れ、竹次郎に教へて曰く、此地必ず関門あり、誰何亦必ず厳ならん、若し姓名を問はば、美含郡訓谷村船頭宇右衛門なりと答ふべし、若し出石の定宿を問はば、田結庄町鹽屋重兵衛と答ふべし、奴事状あり官吏に面するを恐る、乞ふ別路より駅西に至り之を待し、竹次郎之を諾す、孝助道を分ちて駅西に至り之を待つ、久くして来らず、輿夫走り来り孝助を喚ぶ、孝助心に謂ふ京を出て三日、巧逃して此に至り、即ち拘禁せらるるかと、惴々として関前に至る、藩士長岡市兵衛・高田才郎左衛門座に在り、孝助もと長岡を識る、長岡謂て曰く、此漢口供曖昧言語但人に似ず、是れ何者ぞや、孝助曰く、是れ封内美含郡の船頭なり、病あり郷里の帰らんとす、奴もと相識たり、故を以て伴ひ帰るのみ、奴大坂を発してより未だ當て其傍らを離れず、今や封内に入り相識の門を黙遇する能はず、故を以て暫く其側を離れ為めに主公を煩すに至る、乞ふ幸に之を恕せよ、二人曰く、汝にして之を認す、我輩何為れぞ追究せん、通過して可なり、孝助拝謝、足力を究て疾行し、薄暮寺坂に達し竹次郎をして松屋某が家に宿せしめ、夜に乗じて出石に入り、田結庄町角屋喜作に乞て其室を借る事を約し、再び行て之を迎へ、未明を以て喜作の家に入る、喜作の家は市中最開の處なり、更に八木町畳屋茂七が庫を借り潜伏する七八十日、既にして孝助罪を免さる、是より先宵田町に伏屋某なるものあり、家を鹽屋安兵衛に質す、是に至りて流質す、孝助是を借りて竹次郎と共に居り、且幾松を京師に迎ふ、官吏之を怪み名主橋本氏(下吹田屋)の宅に召致して之を鞠す、百万辨解纔に免るるを得、偶ま会津藩士三人之を怪み密に来りて物色す、二人夜を犯して養父市場西念寺に赴き之を避く、元治三年二月に至り、二人転じて城崎温泉に浴し御所湯前松本屋に寓すること五周間、竹次郎其女に通ず妊むあり、然れとも流産す、二人密に出石に帰り、十月に至り同く大坂に出て、阿弥陀寺の早船に乗して下関に達するを得たり、竹次郎是に至り姓名を改めて木戸準一郎孝允と称し、桔据して皇改し維新の事に従ふ、慶應三年、準一郎師を率て京師に上る、孝助従ふ、既にして大政一新す、準一郎孝助が欲する所を問ふ、曰く奴もと商家に生る、尊栄に意無しと、準一郎為めに金数千円を與ふ、孝助此に於て力を商事に尽し、家巨万を致す、明治5年(欠字)産を破る、孝助亦為めに其産を破る、人皆之を憐む、孝助夷黙以て意となさず、粗衣糲飯之に居て泰然たり、奇人と謂ふべし、孝助常に人に語りて曰く、矢石を犯して郭内に入り、幾松の母に誘せられて河東に至る、皆未だ怯怖を感ぜず、獨り久畑関門の一事に至りては、今に至り之を思ふとも猶毛髪の竪立を覚ふと」


(太字は管理人による)
 
ある大仕事が終わって、休日とって、とりあえず撃沈。。。
とかいいつつ、仕事中の隙間に『木戸孝允遺芳集』所載の、桜井
兒山氏の原稿を、ちまちま解読(こら)。
 
 
この桜井稿については、村松センセの『醒めた炎』に詳しい記述があったので、「コレは通読してみたいぞー!」と思ってたら、先月『遺芳集』に偶然出会って、目を通す機会が出来たんですね。 
で、それはまあラッキーだったんですけど、この桜井稿が原稿用紙のまま掲載されてたのは、ちょっと想定外だったかな。。。


しかも活字文もなし。
ホントに400字詰の原稿がそのまま載っかってましたよ。
・・・崩し字読めってか!読めってかァ!
(ちなみにワタシは崩し字が読めません)

 

 

で、ちと現代人に不親切設計な気もしたんで、次回コレの書き下し文をアップしたいなと思ってます。著作権って単語が脳裏を過ぎったけど、団体名義で公表後50年過ぎてるのでクリアしてる、と思う。たぶん(おい)。違ってたらごめんなさい、つーか、そもそも崩し字読めない奴の解読だし、あんまり信用しないほうがいいっすよ皆さーん!(無責任)
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かゆ
自己紹介:
某WJ雑誌で掲載中の幕末パラレルギャグ漫画にて、黒髪長髪和服の人に転倒し、すっかり深みから抜けられなくなったオタク。そして深沼の底にて木戸さんに出会う。「醒めた炎」はバイブル。あの本で同時に村松氏のファンにもなりました。今は一刻も早く読了したい。
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