所用で日比谷へお出かけしました。
日比谷公園や櫻田門を散策しようと目論んでたのに、用事が終わった頃にはすっかり夕暮れ時になってました。。しくしく。
夜の公園を独りで歩くのは怖くて諦め、かわりに皇居の旧日比谷御門辺から、和田倉御門を折れて、東京駅までお散歩。
お堀で、2羽の白鳥がそろって岸壁を食べてました。
おいしいのか、それ。
周布さん伝は、文久2年6月頃をじわじわと進攻中。。
文久年間って、幕末騒動の中でも一段と狂気じみてる気がします。
この年の3月から6月だけ見ても、主な出来事で島津三郎東下、寺田屋事件、将軍上洛の決定、長州藩公の上洛、久世政権の交代、第二次東禅寺事件、藩政レベルでも吉田東洋暗殺、長井雅楽失脚、西郷吉之助逼塞、などなど。。
これほど次々と事件が重なると、たぶん当事者ですら何が起こっているか良く判らなかったんでは、と思います。流れが早すぎて付いていけません。
下は文久2年6月11日付、周布政之助→大久保一蔵・堀次郎宛。
内容も幕末好きには十分面白いんですが、末尾の追伸に爆笑。
「再白 此夜楼上に而汚玉礎候処、酒気勃々不能拝筆候付、乍序左に録上叱正是祈、(以下、周布さん自作の詩)」
「此夜」というのは、公平氏によると、手紙が書かれた前日の6月10日に、木挽町酔月楼に周布・小幡両氏と大久保・堀両氏が会合したことを指すらしいです。
えーと、ということは、10日の会合で周布さんは例によって大酒暴飲した挙句、自作の詩を筆記出来ないほど前後不覚に酔っ払ってしまい、仕方なく翌日の手紙に書き添えて送った、と。
そーゆー意味で宜しいのでしょうか、周布さん。
だから半年前の禁酒宣言はどこへ・・・(笑)
ところで、翌日12日の会合が、世間で言われるところの「鴻門の会」だそうなんですが、周布公平氏によると、この件については、残念ながらきちんとした資料が残ってないそうです。残念。
まさかあれも酒の勢いとかじゃないですよねえ。。。
「戊辰物語」を読了してから、情報のまとめ作業に凝らなければ、通読のスピードを上げられると分かったので、取りあえず読みかけの本を片付けることに専念しようと思い立ちました。
で、ひとまず「米欧回覧実記」と「周布政之助伝」と「文明論之概略」を平行で飛ばし読み。。いや、自分でも馬鹿なやり方だと思うんですけど、なにせ飽き性で、なかなか一冊に集中ができず。。(←言い訳だっつの)
わざわざ抜き出すほどの記事でもないですが、
脚注に載ってた「久米博士九十年回顧録」の一節。
「チェール氏」=ティエール大統領。
「チェール氏は当時75歳能くコンミュン暴徒を鎮めた武略もあれど、温和な矮小老爺で、容貌は尼の如く、我が木戸・大久保の身長偉大なるが目立った。米国渡航以来両副使は白人に交って遜色なかったが、独り岩倉公は短身で、頭蓋の大なる方であったので、折々白人の骨相家などが来て、『体質を検して見たい』と申し込む事もあった位で、大統領チェール氏も我が大使と招宴の時、食卓に相対し、公の頭脳の魁偉なるを眺めて居た」
注目を浴びるほど大きいという岩倉さんの頭蓋とは如何程のものかと、思わず気になってしまいました。。
岩倉さんの頭をつくづく眺めてしまったティエール氏と、それを冷静に観察する久米氏を想像してみるのも楽しいです。(笑)
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