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設置者の設置者による設置者のための個人ブログ。日々の徒然&木戸公愛。
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明けましておめでとうございます。
こんな辺境ブログですが、今年もよろしくお願いいたします。


ダンナの実家に挨拶に行って、初詣行って飯作って一日が終了。
あ、取り溜してた『容疑者Xの献身』見ました!
堤さんの演技が良かった!福山雅治は相変らずかっちょええです。
カッコよすぎて、龍馬にはちと勿体無い気もしたけど(黙れ)


 
『芸術新潮』11月号所載<孔雀明王図>の解説曰く、
この絵はかつて原三渓が、
井上馨から一万円という高値で譲り受け、世間の耳目を集めた」。


・・・まあツッコミ何処は多々あるんですが、そもそも平安期の価値ある名画が、なぜ井上さんの手元にあったんでしょうね。ちょっと疑問。
いやいや疚しいことなんか何も無いですよね! 一瞬、「廃仏毀釈」って単語が頭の中をよぎったけど、もちろん気のせいですね!(黙れ)

あと当時の1万円っていうとやはり結構なお値段だよね。
今でいうと1000万くらい?やっぱ商売人だな、馨くん。
彼にまつわる話はすべて金がらみな気がしてきます。
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仕事が忙しいようなそうでないような日々を過ごしてたら、いつの間にか大晦日に。嘘だろー!
このブログの最終更新日も2ヶ月も前だし、自分でドン引きでした。つーか、私この2ヶ月何してたっけ?!って回想したら、そういえば京都の木戸さんのお墓参り行ってきたり『醒めた炎』下巻を購入したり、それなりに充実した日々だったんですけど、なぜかそれも記憶もおぼろげな程遠い昔のことのような。

来年はもっと実生活や趣味に時間を割けたらいいなあ。
つーかいい加減木戸さん文書を(ごにょごにょ)

それでは良いお年を。
 

 
あああ、また1ヵ月も間を空けてしまった。。。

これまでオフ友には幕末好きな事は内緒にしてたんですが、先日、高校時代の親友Sとランチを食べた時に、近況報告で出石旅行の事とか木戸文書購入の事を話したらドン引かれました(笑)。
「私の友達にも歴女がいるけどさ、その子とアンタなら気が合うかもしれないわ」って笑われた。
それって要するに、「私には話を振ってこないでね」、って意味だよね?「語るならお前ら2人でやれよ」、って意味だよね??(爆)
そりゃあ私が悪かったですけども。
・・・今度、その子を紹介してくれるっぽいです。

で、その友達というのが、Sとよく旅行に行く仲らしいんですが、Sが誘われて一緒に旅行したのが、日光石見銀山なんだとか。
ちょっとまて、家康ファンと勤皇オタって、混ぜたらアレなのでは(怖)




昨夜、ヤフオクを漁ってたら、明治14年出版の和書に、品川弥二郎の住所が載ってるのを見つけたんですが、「東京府麹町富士見町1丁目1番」でした。なんだ、だからヤジ像って靖国の近くにあるのか。
つか、木戸さんも山縣さんも廣澤さんも品川さんも、みんなご近所同士かよ!明治初期の富士見町は、長州人町って感じっぽい。

で、いつから皆さんがご近所同士なのか、気になって地図を調べたんですけど、

04a08772.jpeg
明治2年。木戸さん家の2つ左隣が
廣澤さん家。
仲いいよなあ、ほんとに。
翌々年、廣澤さんがご逝去。




b4b5d71d.jpeg
明治9年。木戸さん家から、靖国挟んで
向かい側が山縣さん家。
品川さんの名前は、探したけど見当たらず。





db7089f9.jpeg明治16年。
「山縣邸」の文字を発見。
品川邸もこの辺の筈だがやはり見当たらない。
住所的には、ガタの左隣辺だと思うんだけど。




2f6d6bd3.jpeg 
明治25年。
あれ、山縣さん引っ越した?
跡地が「農商務大臣官舎」に。

ヤジ氏の名は、あいかわらずナシ。



b338eb84.jpeg飛んで明治43年。
靖国の辺りに、「大村銅像」と並んで
「品川銅像」の文字が!

家が建つ前に銅像になったか。。。





仕事忙しいとか言ってる割にヒマ人な自分を発見した深夜3時。。。

〇は不明箇所。
穴だらけだよ! 
 
「仲尼言へるあり曰く、人遠慮なければ必ず近憂ありと、其言古しといへども、其理は猶新きが如し、松菊木戸公の如き盡、能く仲尼の言を軆せしものと謂ふべきか、文久元治の交、出石は広戸甚助なるものあり、為人任侠にして機矯あり、博打をなして発覚す、遁逃して京都に上り対馬藩士多田壮蔵に仕ふ、壮蔵人と為り慷慨交通、太だ廣く各藩の志士徒党〇て稠し、内に長門藩士桂小五郎なるものあり、特に甚助を愛す、一日来り過き謂て曰く、卿常に云ふ、家但馬出石にありと、余地図に就て之を検するに、其地京都に近くして幽邃ならんと、具さに通行の遠近山川の険易を問ふ、既々畢り笑て曰く、士藩主に仕ふ、アンイ遇合なきを保つを得ん、豫め潜匿の地とし置かざるべかざる、余若し譴を藩主に得ば、卿能く保護を肯ずるや否、甚助謂らく、是戯謔なりと、一笑を偽す、是より甚助を愛すること特に多く、時に秘書を托し知己に封送せしむるに、来る元治元年に至り、長兵關を犯す、一戦敗退兵士或は死し或は遁る、甚助既に小五郎の為めに秘書を封送す、幕吏の来り捕るを恐れ、潜匿して出でず、然るに人あり来り訪ふこと数回、甚助益潜む、一夜老婦あり来訪ふ、甚助謂らく他は幕吏にあらずと、密に出接す、小五郎情婦の母なり、曰く、主公切に君に遇ふことを欲す、請ふ妾と共に来り面せと、甚助曰、主公恙無きや否、答て曰く然りと、母に従て行く、導して五条磧中乞児の稿楼に時に炎暑極て烈なり、小五郎蟄して其中に在り、曰く、疇昔余卿に託するに保護を以てす、卿能く之を犯するや否、甚助曰く、賎夫固より之を犯す、然れとも男子耦行す、恐くは人をして之を疑はしめん、婦人を加るに如かず、請う暫く之を待てと、妹の京都の豪家に仕えしものを訪ひ倶に帰ることを勧む、妹曰く、阿兄平生妹を戒て曰、女子人に仕ふ忠誠ならざるべからずと、今や主家兵災に罹る、妹為めに股肱の力を尽さんと改す、如何して郷に還るべけんと、甚助理屈す、已むなく小五郎を導して京師を発す、潜行三日但馬久畑に達す、久畑は出石の藩境なり、関を設けて行人を誰何す、甚助藩吏の博打の事により巳れを拘するを畏れ、豫め小五郎に教ふるに、藩関士に答ふる要点を以てし、小五郎をして官道を進ましめ、自は間道を取り関門外に至り之を侍る、久して至らず、輿丁走り来りて曰く、関吏誰何実に厳峻を究む、請ふ帰りて之を救へ、甚助已むを得ず帰て関門に至る、藩士数名あり内々長岡市兵衛なるものあり、其居甚助の宅に近し、もと甚助を知る、口を開て輿中にあるものの何者たるを詰問す、甚助〇て曰く、他は二方郡居但の船主なり、大坂にありて発病す、時に賎夫将さに郷に帰んとす、船宿主人賎夫に托するに送還を以てす、疑ふに足らざるなりと、藩士之を信じ始て通行を許す、進て出石の〇村寺坂村に至り休憩し、甚助日没を以て出石に入り、角屋喜作を訪ひ、其間房を借ることを約し、直に寺坂村に帰り、小五郎を導して出石に入る、出石の地京師を距ること三十里、幕府会薩の倹吏時に来往、老険極て甚し、甚助其父才と惰らず、倹吏の来往するごとに、或は湯島に赴かしめ、或は養父に避けしめ、百方保護して、小五郎をして倹約発検を免れしめしのみならず、之をして京都の状況を探知することを得せしめ、翌年に至り送て山口に至る、当時の〇〇今迄存するもの極めて多し、既にして喜七先歿し、甚助直蔵亦跪き歿す、直蔵の子正蔵、拾蒐して冊となし、余に請ふに叙を以てす、晴天木戸公の事を挙るや、戦盼の必すべからざるを思ひ、豫め逃場を設け始て干戈を御し、一旦事敗るるや近畿に潜匿して添加の形勢を察す、遠慮ありて近憂を脱せんものといはざるべからず、甚助父子兄弟協心戳力して能く公を〇〇し、正蔵当時邊墨を集め其不朽を謀る、亦称せざるべからず、叙して之を養〇し置く
八十九歳 桜井勉」
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かゆ
自己紹介:
某WJ雑誌で掲載中の幕末パラレルギャグ漫画にて、黒髪長髪和服の人に転倒し、すっかり深みから抜けられなくなったオタク。そして深沼の底にて木戸さんに出会う。「醒めた炎」はバイブル。あの本で同時に村松氏のファンにもなりました。今は一刻も早く読了したい。
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