忍者ブログ
設置者の設置者による設置者のための個人ブログ。日々の徒然&木戸公愛。
[15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 引き続き「懐往事談」。
 私の読み間違えでなければ、水野忠徳が島津の東下について種種の見解を述べたのを、福地が回想している箇所がありました。
大原重徳は「下向の勅使何某殿と云へる青公卿」だそうです。爆笑。
 
以下は大原が持ち込んできた勅文について、水野の見解。



「・・・日本全国を挙て焦土となすとも攘夷を御実行遊ばされ度が叡慮なりと申したりと承はる。伝聞の事なれば其實否は疑雲未だ存じ申さず、若し虚説流言にてあらば結構の仕合なれども、不幸にして実説にて有るならば驚入りたる勅使の詞ならずや」。

 

・・・水野さん、叡慮が攘夷実行にあると聞き仰天しているらしい。


  それで思い出すのは、これとほぼ同じ頃、桂さんも偶然に、条約棄却・即今攘夷を当然とする朝廷の風潮に触れて愕然としていたこと。
 「醒めた炎」によれば、このとき桂さんは、「国家のこと(中略)おのずから條理あり、一時壮烈の議論に媚びて、多年の條理曲ぐるにあたはざるものあり。」と、相対する公卿を諌めたんだとか。


 「国家のこと」とは勿論、条約問題を含む、日本と諸外国との間の外交関係を意味すると推察されます。
 ようするに、幕府が既に正式に他国と条約を結んだ以上、これを一方的に破却することは却って日本の威信を落とす行為であり、「一時壮烈の議論」、すなわち巷で流行りの攘夷熱に浮かされて攘夷戦争などと安易に実行すれば、日本は条約違反国として国際社会の信頼を完全に失ってしまうだろう、というのがその発言の主意だったと思われます。
 「一時壮烈の議論に媚びて」、とは言っていますが、実際のところ京都勢力の外国人に対する無知や毛嫌いぶりは酷かったらしい。外国人は犬の顔してるとかの虚説が、本気で信じ込まれていたという話をどこかで読んだことがあります。
 歴史の経過した今でこそ笑い話でしょうが、当時ほとんど機能を無くしていたとは言え、日本の行政を担い得る勢力が、其の程度の知識で国政に関りあまつさえ決定を左右してたなんて、なにやらそら寒いことです。

 

桂さんは「即今攘夷」の内容が、よりによって長州藩世子公が勅使選任された勅諚(!)に記載されている事実を知り、駆けずり回って勅諚の内容を変更させたほか、本当に孝明天皇自らが即今攘夷をお考えかどうか、過去の勅書を当たって確認してます。その結果、真に天皇ご自身のお考えなのだろうということで、以降、「君臣湊川」と悲痛な主張をするようになったとか。

 攘夷は当然、などと黒船来航から実に10年近くが過ぎようとしている時点で公言してしまえる当時の朝廷勢力は、正直暗愚といわざるを得ないものがありますが、それでも長州藩としては勤皇の志を藩論を以て採用している以上、天皇の御意思とあらばそれを遂行するのみ、という悲痛な意志表示であったのだと思われます。

 

・・・水野さんの主張といい、桂さんの発言といい、即今攘夷は愚行との立場と見えるんですが、察するに当時、攘夷完遂とか、戦争すれば外国人を追い払えるなどとか本気で考えていたのは、朝廷勢力と外交の実情を知らない一部の人々だけだったんじゃないかという気がします。国家レベルで考えれば攘夷戦争など、不可避と思い定めようと内実は愚策に過ぎないことを、見識ある人々は既に前提として活動していたんじゃないだろうか。勝麟太郎も、日本はいっぺん外国と全面戦争して、日本全国が焦土と化して見れば日本人も目が覚める、という趣旨の発言があったと何かの本で聞きかじった記憶がありますし、そもそも水戸斉昭からして、大衆一致団結の目的で攘夷を主張したらしいですし。超過激派の久坂玄瑞ですら、即今攘夷とは思いもよらなかったらしいという話を知ると、学校の教科書で尊皇攘夷=天皇崇拝と外国人排斥の思想だ、って教えるのはいかにも安直に過ぎる気がします。どうも攘夷=鎖国&テロリズム、みたいな認知ばかりが広まっている気がして落ち着かない。確かに中にはそういう考えの人もいたんでしょうけれど。


 ・・・勅語の伝聞を聞いた水野さんの意見がまたすごかったです。要約すると、

この勅語の噂が事実だとすると、その内容が勅使一人の軽薄から出たものであれ、攘夷浪士連中の煽動であれ、仮初にも「勅使」の口から出たことを放っておくわけにはいかない。幕府は勅使を江戸にとどめて、直に御老中が京都へ赴き、果たして勅語は真実に天皇のお考えかどうか、伺い奉るべきだ。もしそれが叡慮でないならば、勅使には矯勅の大罪を犯した罪で厳科を下すべきだし、本当に叡慮であるならば、幕府がきちんと主上を諌め奉るべきだ。誠実の赤心をもって申し上げれば、御聡明な主上であらせられるので、必ず御聴納下さるだろう。それでももし御聞き入れが無い場合は、日本全国を挙げて焦土と為さないことが御天職であらせられる主上のこと、

「焦土となるも攘夷を行はんとは恐れながら御一己の御好みを以て天下に易させ玉ふと申すものにて候ふ」

然る上は恐れながらも御譲位を促し奉るか、都の外へ行幸下さるかの他はない、とまで言い切ってます

 

福地はこれを聞いた当時は、なんと過激な議論かと思っていたらしいんですが、後から考えれば、尤もなる次第だったと回想してます。確かに、幕府にこれだけ対応できる力があれば、歴史は変わったかなという気がします。もっと言っちゃえば、長州藩の犠牲も無くて済んだかも知れない。歴史にもしも、は無いんでしょうが。




PR

心を入れ替えてまじめに読もうかなと。
文久2年の第1回遣欧使節団に同行した源一郎氏の回想シーン。

「扨も三使は蘇尼(ソーエス)にてオーヂン艦を出て初て埃及(エヂプト)の鉄道に乗り該禄(カイロ)に着し同国亜王(ワイスロイ)の招待に依りて三日間滞留して以て迎船の来るを俟ち同所より再び鉄道にて歴山太(アレキサンドリア)に着し直に英国軍艦ヒマラヤ号に乗移られたり。」福地源一郎「懐往事談」民友社、1897年

 
 ・・・エヂプト。歴山太。なんかいろいろ新鮮です。


 

しかし、はじめて読んだときは「何のこっちゃい?」と思いました。

なんでヨーロッパに行くのにわざわざエジプトで船を降りて、陸路でアレキサンドリアまで行くのか?そのまま船で行けばいいじゃないか?と。

そう思って調べてみたら、うわ、そっか(笑)!スエズ運河がまだ開通してなかったんですね!文中に「ソーエス」とあるのは、十中八九「スエズ(町の名前の)」かと思われます。そこからカイロ経由でアレキサンドリアへ、というのは、きっと運河開通以前当時の一般的な行路だったんでしょうね。

 

また、使節団は当時のエジプト統治者から3日間に亘る供応を受けているのも初めて知りました。「亜王」と「王」が付くので一見国王のようですが、当時エジプトはオスマン帝国支配下の「州」でありながらも、エジプト支配の実権はムハンマド・アリー朝(1805年~1953年)による世襲制の「エジプト総督(ワーリー)」が掌握していたので、招待者の称号は、どうも正式には「国王」とは言えないらしい。

(「総督」は本来は、中央から地方州統治を承認される「州知事」の如きもので、その地方管理職が現地の実権を掌握して強権化した状態かと想像されます。ともかく、1831年と1832年の二度にわたって、オスマン帝国とエジプトはギリシャ独立戦争のもつれから交戦を行っていて[エジプト・トルコ戦争]、しかもその際ムハンマド・アリー朝は、欧米列強諸国からエジプト総督の世襲制を承認されているので[ただし宗主権は依然オスマン帝国スルタンに帰属している]、実質的にムハンマド・アリー朝の「エジプト総督」が、「エジプト国王」に相当する地位にあることは確かみたいです。)

面白いのは称号の当て字で、福地は漢字で「亜王」と書いてルビを「ワイスロイ」と振っています。おそらくこれは「ワーリー」に相当していて、現地の称号をそのまま採用したのではないかと窺えます。また単なる推測ですが、「亜」を「~に次ぐ」という意味の漢字として捉えてみると、「亜王」という当て字は、これもいろいろと政治的配慮に苦心した結果なのかなあ、という気がします。ただ後世にこの字が普及した様子はないみたいですが(笑)。

 

もののついでで調べてみたところ、第一次遣欧使節団派遣当時のエジプト総督は、初代総督であるムハンマド・アリーの息子、サイード・パシャ(在位1854年~1863年)だそうです。サイードの少年時代には、かのフェルディナン・ド・レセップスが家庭教師を勤めており、後年、彼の助言によって、有名なスエズ運河の開発が開始されます。しかしこれがエジプトに多大な財政難危機をもたらし、サイードは1863年、享年40でこの世を去っています。

 

サイードの後任者はイスマーイール・パシャ(在位1863年~1867年)で、在位期間を見るに、幕府の第二回遣欧使節団の方は(例の、埋もれたスフィンクスと日本武士が一緒に写真に写ってるシュールな写真で有名な使節団)、こちらの総督に面会したと思われます。彼の時代には、先代の始めたスエズ運河建設の続行や、欧化政策推進のための出費増大が積み重なって、エジプトが巨額の対外債務を抱える事態となり、1875年のスエズ運河売却に引き続き1876年、ついにエジプトは破産して、債務者である列強の管理下に置かれることとなりました。

 

エジプトもまた、当時の清国や日本と同様に、欧米列強諸国の経済的、実質的支配の脅威にさらされていたこと、また1870年代に日本とエジプトがそれぞれ辿った歴史を振り返って思うと、なんだかやりきれない思いがします


4月20日、晴れ時々曇。
今日が展示最終日の横浜開港資料館「ハマの謎解き」か、品川の幕末写真展でも見てこようかと思っていましたが、家でぐずぐずしているうちに、気力が無くなりやむなく中止。横浜は、都民にはちょっと遠かった・・・(←言い訳)
出不精は良くないですよねえ。うん。


中断していた『懐往事談』、一昨日頃からようやく手をつけ始めました。
手をつけ始めたといいながら、今朝も読んでいたのは佐々木克『大久保利通』(講談社学術文庫)でした。
我ながら浮気性だな。


 さて話を戻して『懐往事談』、冒頭は、日米修好通商条約に伴う安政6年夏の横浜開港時代の話からスタート。今年2008年は開港150周年にあたるので、横浜区のホームページなんかをみても、「開港日まであと○○日!」なんて、大きく宣伝されたりしてますが。おお、なんてタイムリー。
 福地氏は、自身の説明によると当時年少の書生身分であったが、英語を学んでいたため幕府の外国奉行管轄下の翻訳事務に採用。すぐに品川や開港前夜の横浜へ出張命令を下され、横浜運上所の「火事場の如き喧騒」「恰も盂蘭盆と正月に同時に落ち合いたる状況」を目撃しています。同じ福地の著書『幕末政治家』(岩波文庫)にも、開港直前の幕閣事務・外国奉行は火事場の如き喧騒であったという記述が見えていた記憶がありますが、まさか本人の生の目撃談だったとは思ってもみませんでした。びっくり。

 さてしばらくの間、横浜までの旅路の珍道中が面白可笑しく描かれているので、あはは、と笑っていたところで、唐突に話は安政の金銀改鋳の話へ。
例の、メキシコドルが日本銀貨に、そして日本金貨に化けて日本国内から大量に流出し、幕末のインフレの一原因をなしたといわれる、アノ辺の話です。
・・・まあ外国奉行管轄下だし?いつかはそういう話が出るとは思ってたけど、でもなあ、まだ心の準備がですね・・・。
正直未だに仕組みが理解できない。



仕方が無いので読書は再び中断して、江戸時代の通貨制度を勉強しよう!と決意しました。まあ幕末勉強するならいずれは避けて通れなかったんだと思って観念しよう。
うう、どうなることやら。

14日は実妹と義兄の、15日は義母の誕生日に当たるので、午前の家事を終えたのち、プレゼントを購入すべく吉祥寺へ出陣。誕生日祝いを選ぶのは楽しいですが、何を送れば喜んでもらえるか、毎年悩みどころです
あまりに不必要なモノや趣味が分かれるのを買うのも
NG
かな、と思いはじめると、とたんに妙な気使いが止まらなくなります。風呂好きの妹にバス用品をと考えてみても、でも石鹸て贈り物としては良くない意味があったよな、などなど、普段無い知識までもが総動員、結局無難に化粧品やらチョコレートやらに納まりました。4時間も粘ってこれはどうよと自分でさえ思った・・・

 


さて、昨日『懐往事談』に手をつけるぞ!と宣言したばかりなのに、電車の中で読んでいたのはなぜか『福翁自伝』。「福翁」は福地じゃなくて、福沢諭吉です
 どうでもいいけど福地さんと福沢さん、名前が「福」始りの外国奉行つながり。そういえば、福沢さんの親友の1人が、福地さんと役宅が隣同士だったと聞いたことがある気がします。お互いの名前やなんかはきっと知っているでしょうが、案外顔合わせる機会も多かったかも知れない

 

 

 『福翁自伝』は、読みはじめから衝撃的でした。1万円札にカシコマリ顔で納まってるあの人が、あ~んなことからこ~んなことまで(笑)、よく覚えてるなと感心するくらいぺらぺら自慢話やら失敗談やらをしゃべってくれてます。しかし完全無欠の英傑肌より、欠点だらけでもそれを隠さずさらけ出すことのできる人物のほうに好意も度量の深さも覚えるのはなにも私だけでもないかな、と。とりあえず私は、子供向けの歴史人物伝(←小学校にあったシリーズ漫画の1冊)を読んだ頃より、ずっと福沢さんが好きになりました。

 しかも福沢氏、すごい話し上手でした。読んでいるうちにいつのまにか話に引きずり込まれて感情移入してます。息子である諭吉くんの将来を親身に心配してくれながらも、自身は不遇のまま生涯を終えたお父さんを想って泣いた話は、私も思わず貰い泣きしそうになりました。
乗じて思い出されるのは、友人宛に「親父の意志」を継ぎたい、と控えめにつぶやいていた木戸さんのこと。彼もこんな風にお父さんの愛情を想って泣く事がきっとあったんだろうなと思います。
(結局木戸さんオチなのね、自分。)


カレンダー
07 2025/08 09
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
最新コメント
[06/13 山笑]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
かゆ
自己紹介:
某WJ雑誌で掲載中の幕末パラレルギャグ漫画にて、黒髪長髪和服の人に転倒し、すっかり深みから抜けられなくなったオタク。そして深沼の底にて木戸さんに出会う。「醒めた炎」はバイブル。あの本で同時に村松氏のファンにもなりました。今は一刻も早く読了したい。
バーコード
ブログ内検索
最古記事
アクセス解析

Copyright (c)あやめわかたぬ浮世のなかに All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog  Photo by Kun   Icon by ACROSS  Template by tsukika


忍者ブログ [PR]