「行在所電信原書・二」をじわじわ進行しております。。
3月13日午前10時45分発同日着
黒田清隆(長崎)⇒三条・大久保・木戸(京都・大坂)宛
「御委任の件々、悉皆処分せり、鹿児島県令処分見込あり、出京の上、官位剥奪の事に決せり、後細勅使及奈良原より述連の心算、鹿児島県下大いに静謐、鎮台へ巡査フヨウに属せり、直ちに○○○○クチへ○ヲ御振向相成度、至急其筋へ御指令ありたし、下官進退如可何致哉、鎮台へ処置を以てまたまた至難の場へ御委任被下度御志願す、是又至急御指令を仰ぐ、この旨右大臣へ御送致有度」
(判読不可・意味不明は○、カタカナ)
黒田参議が、自ら戦場行きを志願。
旧薩摩藩士だけに、いろいろと思うところも多いでしょうに。
3月13日午前8時10分発同日着
木戸・大久保・伊藤(大坂)⇒三条(西京)宛
「本日午後4時5分発黒田参議より電信の趣承知せり、右は本日山縣川村両参軍へ、左の通り電信を以て談じ置きたれば、右へ指示次第見込可申上、鹿児島無事に処分済み、兵隊巡査フヨウに付ては、黒田参議より至難の地に当りたき旨上願申したる、依て右人数を率き、賊の背後を討たしむる御委任ありて可然と存ず、右至急黒田へ指令の手順在るに付、速やかに返事を待つ」
電報の時間が大変おかしいのはさて置くとして、
(たぶん記録上の問題か、私の読違えと思われる)
即日、三条さんへ話が回されたようです。
なんていうか、渡りに船と言わんばかりの食いつきぶり。
よっぽど人材不足だったのかな。
3月14日午後1時50分発同日着
岩倉(東京)⇒三条(西京)宛
「西郷従道今日明日のうち東京より繰出、二大隊を率き是非出張致度との事に候、是は決して然不可事と申聞けたれとも、頻りに懇願に付、念の為一応電報及候、尤も御同意とは存づれど、何卒不可然旨を至急返事可被下候」
さて翌日、黒田の件を聞いたのかどうか、
西郷従道が暴挙に出ました。
曰く、「兵隊を率いて鹿児島へ行きたい。」
いやアナタはマズイでしょう!!
木戸さんや大久保さんですら止められたのに!
岩倉さんもさぞやイライラしたでしょうね。
どいつもこいつも!って。
でも従道氏がしつこいから一応、三条さんに可否を問うてます。
「君も僕と同じで反対意見だろうけど、なるべく早くダメだと言ってくれ」
うっわあ・・・。
これだけ沢山の人が戦場行きを志願してるけど、実は皆結構良い地位の人たちなんですよね。国難に直面したからには、地位の軽重に関わらず自らの死を賭して立ち向かい、天皇と日本の為に殉じるのが官員の当然の務めだ、と認識されていた時代だったんでしょうね。彼らの多くが下級武士層出身だということを差し引いても、これはすごい感覚だと思います。
PR
ネット浮遊してたら、アジ暦所載の電信原書に衝突。
今や「周布さん伝」や久米さんそっちのけで、夢中になってしまいました。。アジ暦、恐るべし。
「行在所電信原書一」
(明治10年2月23日~3月12日)
西南戦争時の政府間電信のうち、京都着の電報の記録。全7冊。
こんなすごいシロモノが、家を出ずしてタダで見られるとは。
便利な時代に感謝。
一巻読んだ処で、ひとまずwiki記事と照合してみたところ、見事に情報が噛み合ってなくて(笑)、少しも整合作業が出来ませんでした。
といっても、明確な虚偽記載があったワケではなく、電報に無かった話がwikiに記載されていたり、wikiに無い話が電報に記載されてたり、といったことなんですが。
あまりの不整合っぷりに、ちょっと動揺しました。。。
原因を考えるに、wiki記事は薩軍側の資料がベースらしいのと、官軍の電報は情報量が制限されるというリスクを負ってるから、ある程度の不整合は仕方ないのかも。
ただ、電報の方が、どうも味方側の戦勝報告が多くて、少しアヤシイ匂いを感じました。例えば「戦勝だけど味方の被害は甚大」と報告するとき、意図的な情報攪乱はなくても、被害情報だけが、報告を上に通す過程で、ぽろぽろ落ちて行ってしまったのかも知れない。
そんな想像を掻き立てられる不自然さでした。
ただ、政府の伝達手段は電報だけではない筈なので、単に詳しい報告を他に譲っただけかも知れません。
今や「周布さん伝」や久米さんそっちのけで、夢中になってしまいました。。アジ暦、恐るべし。
「行在所電信原書一」
(明治10年2月23日~3月12日)
西南戦争時の政府間電信のうち、京都着の電報の記録。全7冊。
こんなすごいシロモノが、家を出ずしてタダで見られるとは。
便利な時代に感謝。
一巻読んだ処で、ひとまずwiki記事と照合してみたところ、見事に情報が噛み合ってなくて(笑)、少しも整合作業が出来ませんでした。
といっても、明確な虚偽記載があったワケではなく、電報に無かった話がwikiに記載されていたり、wikiに無い話が電報に記載されてたり、といったことなんですが。
あまりの不整合っぷりに、ちょっと動揺しました。。。
原因を考えるに、wiki記事は薩軍側の資料がベースらしいのと、官軍の電報は情報量が制限されるというリスクを負ってるから、ある程度の不整合は仕方ないのかも。
ただ、電報の方が、どうも味方側の戦勝報告が多くて、少しアヤシイ匂いを感じました。例えば「戦勝だけど味方の被害は甚大」と報告するとき、意図的な情報攪乱はなくても、被害情報だけが、報告を上に通す過程で、ぽろぽろ落ちて行ってしまったのかも知れない。
そんな想像を掻き立てられる不自然さでした。
ただ、政府の伝達手段は電報だけではない筈なので、単に詳しい報告を他に譲っただけかも知れません。
「戊辰物語」を読了してから、情報のまとめ作業に凝らなければ、通読のスピードを上げられると分かったので、取りあえず読みかけの本を片付けることに専念しようと思い立ちました。
で、ひとまず「米欧回覧実記」と「周布政之助伝」と「文明論之概略」を平行で飛ばし読み。。いや、自分でも馬鹿なやり方だと思うんですけど、なにせ飽き性で、なかなか一冊に集中ができず。。(←言い訳だっつの)
わざわざ抜き出すほどの記事でもないですが、
脚注に載ってた「久米博士九十年回顧録」の一節。
「チェール氏」=ティエール大統領。
「チェール氏は当時75歳能くコンミュン暴徒を鎮めた武略もあれど、温和な矮小老爺で、容貌は尼の如く、我が木戸・大久保の身長偉大なるが目立った。米国渡航以来両副使は白人に交って遜色なかったが、独り岩倉公は短身で、頭蓋の大なる方であったので、折々白人の骨相家などが来て、『体質を検して見たい』と申し込む事もあった位で、大統領チェール氏も我が大使と招宴の時、食卓に相対し、公の頭脳の魁偉なるを眺めて居た」
注目を浴びるほど大きいという岩倉さんの頭蓋とは如何程のものかと、思わず気になってしまいました。。
岩倉さんの頭をつくづく眺めてしまったティエール氏と、それを冷静に観察する久米氏を想像してみるのも楽しいです。(笑)
国立公文書館のデジタルアーカイブにあった「明治東京全図」なる
地図、明治9年刊行なんだそうです。
・・え、じゃあ、もしかして木戸さん家も載ってるかも?!?!
なんて、ちょっとだけ期待して覗いたら。。。
ほんとに載ってました。
九段のあたりに「木戸孝允」って、ちゃんと書いてある!!
は、鼻血が出るかと思った!(汚い)
しかも近所に、山縣有朋の家まで発見。
うわあ、近い!ほぼお隣さんじゃないか!
山縣さんの家って、椿山荘しか知らなかったけど、九段にこんな大きい家持ってたんですね。っていうか、木戸さん家より広いよ?
三年町の大久保さん家も無事発見。
世間の悪評を買った洋風邸があった土地・・・のはずなんですけど、いまや外堀も池も跡形もなくて、ここがかつて見晴らしが良い土地だったなんて、ちょっと信じがたいです。
あと、大久保さん家の向かいが、大木さん家でした。ふうん、ホテルの隣室すら敬遠された伝説の男にもちゃんと隣人がいたんですねえ・・
・・・・いやほんの冗談ですよ内務卿!
あの地図、手元に欲しいなあ。
カレンダー
07 | 2025/08 | 09 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
カテゴリー
Amazon検索
最新トラックバック
プロフィール
HN:
かゆ
自己紹介:
某WJ雑誌で掲載中の幕末パラレルギャグ漫画にて、黒髪長髪和服の人に転倒し、すっかり深みから抜けられなくなったオタク。そして深沼の底にて木戸さんに出会う。「醒めた炎」はバイブル。あの本で同時に村松氏のファンにもなりました。今は一刻も早く読了したい。
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析