かねてより気になっていた"Gleanings In Buddha Fields "
を読んでみました。
といっても、たった2パラグラフですが。
久しぶりの周布さん伝。
文久2年6月、前田孫右衛門⇒周布政之助宛書翰
「(源頼朝は)一時の権道を以、覇府を建候儀歟と奉考候、右は不得止事之勢に付、 広元公右之御処置被為遊、此儀に付而は、傍御功業も有之候得共、後世よりは、今に至り彼是と、乍恐誹謗仕候向も有之、山陽翁抔に至り候而は、獅子心中之虫抔と、狼藉を書残し居申候・・・」
「獅子心中の虫」とは、頼さんも随分な言いようですが。。。勤皇論が盛んになるにつれて、こういった大義名分論は、随分盛んに論じられていたんでしょうね。
仕える主君をもたない現代人の私からすると、「そんな600年以上も
前の話をほじくり返すことに、なんか意味があるのかよ?」って思いますけど。
ただ当時の長州藩士からすれば、主君の祖先が公然と批難されることは、決して無視できない話だったと思います。
木戸さんが広元公の功業に言及した意味が、少しだけわかった気がします。
所用で日比谷へお出かけしました。
日比谷公園や櫻田門を散策しようと目論んでたのに、用事が終わった頃にはすっかり夕暮れ時になってました。。しくしく。
夜の公園を独りで歩くのは怖くて諦め、かわりに皇居の旧日比谷御門辺から、和田倉御門を折れて、東京駅までお散歩。
お堀で、2羽の白鳥がそろって岸壁を食べてました。
おいしいのか、それ。
周布さん伝は、文久2年6月頃をじわじわと進攻中。。
文久年間って、幕末騒動の中でも一段と狂気じみてる気がします。
この年の3月から6月だけ見ても、主な出来事で島津三郎東下、寺田屋事件、将軍上洛の決定、長州藩公の上洛、久世政権の交代、第二次東禅寺事件、藩政レベルでも吉田東洋暗殺、長井雅楽失脚、西郷吉之助逼塞、などなど。。
これほど次々と事件が重なると、たぶん当事者ですら何が起こっているか良く判らなかったんでは、と思います。流れが早すぎて付いていけません。
下は文久2年6月11日付、周布政之助→大久保一蔵・堀次郎宛。
内容も幕末好きには十分面白いんですが、末尾の追伸に爆笑。
「再白 此夜楼上に而汚玉礎候処、酒気勃々不能拝筆候付、乍序左に録上叱正是祈、(以下、周布さん自作の詩)」
「此夜」というのは、公平氏によると、手紙が書かれた前日の6月10日に、木挽町酔月楼に周布・小幡両氏と大久保・堀両氏が会合したことを指すらしいです。
えーと、ということは、10日の会合で周布さんは例によって大酒暴飲した挙句、自作の詩を筆記出来ないほど前後不覚に酔っ払ってしまい、仕方なく翌日の手紙に書き添えて送った、と。
そーゆー意味で宜しいのでしょうか、周布さん。
だから半年前の禁酒宣言はどこへ・・・(笑)
ところで、翌日12日の会合が、世間で言われるところの「鴻門の会」だそうなんですが、周布公平氏によると、この件については、残念ながらきちんとした資料が残ってないそうです。残念。
まさかあれも酒の勢いとかじゃないですよねえ。。。
周布さん伝所収、文久2年3月頃、奥平数馬→桂小五郎書翰。。
「麻田は依然たる麻田、豪論痛飲気魂益盛に而御座候、宍翁竹内庄兵衛も一同上着、一日一同会飲仕候、事情は丸而不申出に付、委敷麻田へ幾應も御尋可被成候」
天狗氏の名文句「麻田は依然たる麻田」に、笑いがとまりません。。
そして、周布さんの保護者はやっぱり桂さんらしい。奥平さん、「アイツがそっち(江戸)に着いたら、何度でも問い糾してやってくれ」って、桂さんに完全丸投げ。それでなくても桂さんは〇杉氏や久〇氏やら伊〇氏やら、世話の焼ける後輩の保護者役を買わされてんのに、そのうえ酒乱の先輩の面倒まで見てるとは、ああ、やっぱりこの人苦労人だわ。。
同僚から後輩に委細チクられてるとは知らない周布さんが、江戸でどんな目にあったのか、ぜひ詳しく知りたいものです(笑)
つーか周布さん、貴方4ヶ月前に禁酒宣言したばかりじゃあ・・・?
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