同じ時代のあの人とこの人の意外な繋がりを発見して、
「えっ、この人たちにこんな出会いが?!」
と驚いてみるのも、歴史ファンの楽しみの一つだと思うのです。
以下81歳の佐々木長淳氏回想談。公=大久保公。
「私が公と初めてお目にかかったのはオーストリアの博覧会の時であった。明治6年の1月に佐野常民伯と同道して、オーストリアの博覧会に行きましたが(略)博覧会のことがほぼ終わると今度は養蚕製糸紡績、この三ツを取り調べるという工部省の命令で、先ずオーストリアでこれらを調べ、後に伊太利へ行って、この三ツを調べておりました。そうしておると、岩倉大使が大久保、木戸らの副使を従えて伊太利へ来られ、ベニスに泊まられることになった。私はベニスの停車場へ迎いに出て、旅館へも同道してご挨拶申し上げたが、これが公にお目にかかる初めてで、しかも欧羅巴ではこの時ただ一回お目にかかったきりであった。」
(佐々木克『大久保利通』講談社、2004年)
でもなあ佐々木さん、イタリア訪問時の岩倉使節団には、大久保さんも木戸さんも同行してなかったはずなんだけどな・・・。
編者の注釈(という名のツッコミだと思う)でも、「大久保利通はイタリアを訪問しないで帰国した」、だそうです。
佐々木さんは帰国後、自分の所属が工部省から内務省出仕に変えられてた事を、大久保卿が欧州で自分を見込んでくれたのじゃないかと思い、ものすごく感激したそうです。
素敵な美談なんですが、佐々木さんはヨーロッパで大久保さんに遭遇したことは、ホントは一度もなかったんじゃなかろうか(苦笑)。
たぶん真相は、内務省新設置に伴って各省から事務の引継・移行をしてた時期なので、単にそれに伴う配置移動の結果だと思います。あるいは岩倉や伊藤あたりが人材と見込んで大久保さんに注進したか、万博の開会式場をうろうろしていた木戸さんにでも見出されたか。
ただ実際に誰が関与したにしても、当時の日本の重要な輸出産業であった養蚕業に、政府中枢メンバーが大きな関心を払っていたのは確かだろうと思います。
・・・・・・と思ったら。
「公が御在世の頃と亡くなってからとは、どうも大変な相違で、全くまア一時は世の中は暗さ。蚕糸の事業は内務卿は非常に力を入れておられたが、卿が亡くなってからは単に農務局蚕糸課に委ねられてしまいました。」
――――――おーい、伊藤さん(笑)???
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かゆ
自己紹介:
某WJ雑誌で掲載中の幕末パラレルギャグ漫画にて、黒髪長髪和服の人に転倒し、すっかり深みから抜けられなくなったオタク。そして深沼の底にて木戸さんに出会う。「醒めた炎」はバイブル。あの本で同時に村松氏のファンにもなりました。今は一刻も早く読了したい。
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